誕生日考

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中学生か高校生だかの時、
クラスメイトの女子が
「あ、今日誕生日だった」と呟きました。

その日が自分の誕生日だった事を
すっかり忘れていたそうで、
驚いた様子でした。

それを耳にした私も驚いたと同時に
「カッコイイ!」と思いました。

その頃の私にとって、
誕生日というのは
知人達から「おめでとう」と祝われ、
プレゼントが貰える日。
数日前から
意識せずにはいられないので
忘れる事など、有り得ない事でした。

私に限らず、その年頃なら
誕生日は自分が主役の日という感じで
認識していると思います。

そんな、一年に一回の
自分のスペシャル・デイなのに
何故彼女は忘れていたのか?

彼女は別に、ネガティブに
『誕生日どころじゃない』という
状況だった訳ではありませんでした。

恐らく彼女は
誕生日以上に心を奪われる物事が
あったという事ではないか?

そう推察した私は
彼女を大人っぽく感じ、それが
「カッコイイ!」と思わせた
理由だと思います。

その後も私にとって誕生日とは
「あれが欲しい。これが食べたい」
といった欲望の日であり、
親しい人達とは互いの誕生日を
お祝いしていました。

だけど年を取るにつれ徐々に
誕生日に対する考え方が少し
変わってきました。

一つには
落ち着いてきたというのか、
お祝いやパーティをしなくとも
生きていける様になったのです。

もう一つは
《生まれた日》として祝って貰っている
誕生日とは、
《産んでもらった日》であるという事に
思いが及んだからです。

自発誕生出来ない哺乳動物は
産んでもらわない事には
この世に出てこられないのです。

そう思うと、
産んでもらった事には
有り難さひとしおです。

だから私の場合、自分の誕生日は
《産んでくれた人に感謝する日》と
なったのです。

それで、お誕生日に
「おめでとう」と言われて
「ありがとう」とお礼を言いつつも、
「いえいえ、おめでとうだなんて
滅相もございません」
という様な胸中の時もありました。

それから更に幾年が経った私の誕生日、
友人がバースデーカードに
「長年に渡ってお誕生日を
お祝い出来て嬉しい」
というメッセージを書いてくれました。

そして私はその時気づいたのです。
あ~私は又、分かっていなかったのだなと。

そうです。
「お誕生おめでとう」
と言ってあげられる相手がいる事は、
自分が言われる事以上に幸せな事だったのです。

だから「今日私の誕生日なの」
と言ってきた人には
「おめでとう」
と言ってあげましょう。
勿論、然程親しく無い人に、
それ以外は不要でしょう。

さて今思うと、あのクラスメイトに
私は「おめでとう」を言っただろうか?

彼女は、そんな言葉を期待して
言った訳では無いと思いますが、
「おめでとう」を言えないとは
不粋で愛の足りぬケチな人間だと感じ、
赤面します。

ところで、
あの頃から数十年経った今では
記憶機能の低下の方が気掛かりですから、
「自分の誕生日忘れてたわ」という
カッコ良さより、
「ちゃんと覚えているわ」という
安心感の方が大切になりました。

「自分のお誕生日、
ちゃんと覚えていて、おめでとう!」

……それでは今日もこのへんで。
またお会いしましょう✨

   夏の真昼

本日のBGM:佐野元春『二人のバースディ』
       ニール・セダカ
   『すてきな16才
      Happy Birthday Sweet Sixteen

✨✨✨✨✨✨✨

小説『フーガ遁走曲~白薔薇婦人が愛した庭~』
https://natsunomahiru.hatenablog.com